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![]() ![]() 當寺の中興開基は伊達 忠宗(だて ただむね)公です。 忠宗公は、江戸時代初期の陸奥仙台藩の第2代藩主。伊達政宗の二男で嫡子。母は田村清顕の娘・愛姫。初代伊予宇和島藩主伊達秀宗は異母兄。仙台藩の地位と基盤固めに務めて大いに功績を残したため、「守成の名君」と評された。 慶長12年(1607年)、この年誕生した徳川家康の五女・市姫との婚約が成立したが、市姫は3年後に夭逝したため、代わりに池田輝政の娘・振姫(家康の孫娘)が徳川秀忠の養女として嫁いだ。庶長子であった兄の秀宗は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に父と共に参陣し、戦後に大御所徳川家康から伊予宇和島10万石を与えられて別家を興したため、忠宗が伊達宗家の後継者と定められた。 寛永13年(1636年)5月、父・政宗の死去にともない家督を相続する。忠宗は同年8月に藩主としての初入部を果たすと、ただちに藩政の執行体制を決定した。まず、他藩の家老にあたる奉行職6人のうち石母田宗頼・中島意成・茂庭良綱・奥山常良の4人は留任させ、津田景康・遠藤玄信に代えて津田頼康(景康の子)・ 當寺中興開基となる古内重広を新たに加えた。 さらに、これまで単任制で奉行を指導・監督する立場にあった評定役を複数人制に改めて奉行の補助機関へと役職内容を変更し、津田景康・遠藤玄信・片倉重綱・古内義重・鴇田周如の5名を任命した(評定役は後には裁判を行う評定所の責任者の役職名となる)。 このほか、監察を担当する目付役7名を任命し、翌年には家中における私成敗を禁止するなどの条項を含む法度を制定して、藩内の統制を強化した。 財政面では、寛永17年(1640年)から同20年(1643年)にかけて寛永総検地を実施する。それまで仙台藩では1反=360歩で計算していたものを全国標準の1反=300歩に合わせ(二割出目)、貫高制の換算基準を1貫=10石で固定して事実上石高制と同様にし、 さらに検地の結果を受けて家臣団の知行地の大規模な再編を行った。また、領内の余剰米を藩が買い上げ江戸に運んで売捌く買米制を実施する。忠宗の代における買米制は非強制かつ代金先払いであったため、農民にとっても有益であり、買米代金は「御恵金」と呼ばれ、さらなる新田開発を促す原動力となった。 寛永16年(1639年)には政庁として使用するため仙台城に二の丸を造営。 寛永14年(1637年)に政宗を祀るため瑞鳳殿・瑞鳳寺を建立 寛永17年に白山神社の社殿を建立 寛永20年に満福寺を創建、 慶安2年(1649年)に火災で焼失した孝勝寺を再建 慶安3年(1650年)には愛宕神社を建立 承応3年(1654年)には東照宮を6年かけて勧請・遷宮した(仙台東照宮) 承応4年(1655年)に仙台東照宮の祭礼で行われた仙台祭は ◎現在の仙台・青葉まつりの元になった。 ◎万治元年(1658年)7月12日死去、享年60。「大慈院殿」(感仙殿に奉祀) ◎筆頭家老古内重広他 重広家臣(木名瀬氏・鈴木氏・中村氏)らが殉死し、大満寺に埋葬される。 ◆上記の写真の中央に忠宗公霊位牌、右に古内重広氏の霊牌を本堂の東室中に奉祀している。 ひな壇に漆塗りの小さな扁額がある。霊光殿とかかれたもので、瑞巌百世桃水とあり、 瑞巌寺の100代目桃水和尚による揮毫である。 総ケヤキ造位牌堂「霊光殿」が建立されたと寺歴資料にありるが、 明治維新後の藩・伊達家の庇護が無くなった明治期に寺が困窮し、 朽ち果て解体を余儀なくされたと推察する。 廃仏毀釈運動により、寺の価値観が減少し、損傷が激しく風雨にさらされていたという。 ただし「霊光殿」という命名はいかにこの場所が尊崇する場所で あったかという往時の思いを感ぜずにはいられない。 平成の世になり、岩沼古内氏家の直系の子孫が、 泉区近郊に住まわれるご夫妻が盆暮彼岸には香を手向けにお出でになる。 誠にありがたい事である。 先般 親族である亘理のs石家を伴い、また戦後アメリカにわたられた子孫を案内して お出でになられた際に 古内家の家門の一つである九翟紋の使用を許可されて 当寺の寺紋に九翟紋が加わりました。 伊達家より両三つ引き紋 古内家より左巴紋 九翟紋 が寺紋となった。
by daimanzenji
| 2022-06-21 08:43
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