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2代 忠宗死去 3代綱宗 隠居 の伊達家の危機 4代 亀千代 2歳 後見人を藩主に岩沼藩三万石へ1658年に仙台藩2代藩主忠宗(ただむね)が死去する。 綱宗(つなむね)が3代藩主になります。古内重広(しげひろ)が遺言したように、綱宗は酒癖が悪く、酒色におぼれて藩政を顧みなかったので、伊達家の家臣や親族大名は「このままでは仙台藩が幕府によって取り潰しになってしまう」と危惧しました。 家臣の諌言(※かんげん)なども聞き入れられなかった。 伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ)たちは親族大名と相談し、綱宗を隠居させることなどを幕府に願い出ます。 幕府は、1660年に綱宗の強制隠居と子の亀千代(かめちよ。後の綱村(つなむら)への家督相続を命じます。 しかし、4代藩主となった亀千代はまだ2歳。そこで、後見人として選ばれたのが、伊達兵部と田村宗良(むねよし)です。 後見人にふさわしい格を与えようとしたのか、2人は一関と岩沼に、仙台藩からそれぞれ三万石の領地を分与され、仙台藩の家臣という身分から大名に格上げになります。 ところで、なぜ一関と岩沼だったのでしょうか。兵部は一関に所領を持っていたので、その周りを加えて三万石。 一方、田村の所領は岩ヶ崎(現在の栗原市栗駒)。これを機に岩沼に所替えとなり、岩沼にいた古内氏が代わりに岩ヶ崎に移っています。 岩沼が交通上・治世上、仙台藩の中でも非常に重要な土地であったことが“三万石の地”として選ばれた理由の1つのようです。 さて、こうして田村宗良によって開かれた岩沼藩三万石。 しかし、綱宗の強制隠居に始まるこれらの出来事が、仙台藩を落ち着かせるどころか、 以後10年以上にわたる「伊達騒動」の発端となってしまうことを、当時は誰も予測できなかったのかもしれません。
後見人VS筆頭奉行(前編) ~藩境の確定~幼い藩主の後見人として大名になった田村宗良(むねよし、岩沼藩三万石)と伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ。一関藩三万石)。 しかし、ある男が2人の前に立ちはだかります。仙台藩の筆頭奉行奥山大学(常辰。だいがくつねとき)です。 本来なら、奉行衆は、後見人の指示を受け、藩政運営を行うはず(後見人政治)。しかし、奥山常辰は「仙台藩のため」と、後見人をけん制します。 はじまりは、岩沼藩の境界問題。岩沼藩は、最初は名取川から南となるはずでした。ところが奥山は仙台城下に近すぎると反対。 結局飯野坂・笠島(現名取市)から南の地になりました。そして、奥山は代わりに自分の所領である村田を岩沼藩領に組み込みます。 岩沼藩への配慮?・・・本当にそうでしょうか。これを機に奥山は仙台藩内で最も肥沃な黒川郡吉岡に所替えをしています。 なお、一関藩の境界をめぐっても奥山は兵部の思い通りにはさせませんでした。 典拠:岩沼市HPより転載/「岩沼藩三万石ものがたり」https://www.city.iwanuma.miyagi.jp/kanko/rekishi/nyumon/sanmangoku.html > > > > 岩沼藩三万石ものがたり
by daimanzenji
| 2024-04-19 12:14
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