【古内主膳重廣について】 (2)生い立ち
古内主膳重廣は福沢館主古内實綱の養子となり、根白石福沢で育ちましたが、実は国分盛重の末子で、伊達政宗公の従兄弟に当たります。
父・国分盛重は伊達晴宗と久保姫(裁松院・墓地は根白石)の末子、すなわち政宗の父・伊達輝宗の弟です。当時の伊達家は、山形県米沢城が本拠地でした。国分家は、仙台領の国分荘32カ村を約400年間治めていた仙台の領主でしたが、伊達家の勢力拡大のため、国分盛氏に盛重を養子に出し、国分家を伊達家の傘下としたのでした。
しかし、国分家の内紛を抑止できず、また、病と称して政宗公の岩出山城に入見せず、①政宗公に松森城または小泉城を攻撃される説 ②謀反の疑いで殺さんとす、の説があり、盛重は姉の嫁ぎ先の常陸・佐竹義宣を頼って亡命、佐竹の家臣となりました。これにより、名門国分家は慶長4年(1599)廃絶。
残された兄2人は仏門に入り、8歳の平蔵(重廣)は、家臣に背負われ根白石福沢の姉の嫁ぎ先である古内實綱の元へ逃げ延び、古内家の養子となり、根白石で育ったのです。古内家は国分家の家臣でしたが、後に伊達家の家臣となります。
重廣が養子になった後、古内伊賀義實(義重)が生まれます。義實は伊達騒動唯一の生き残り奉行古内志摩義如の父です。
しかし、義父實綱は重廣が11歳の頃亡くなったので、姉に養育されましたが、泉ケ岳の広い麓で、思いっきり剣術や乗馬の腕を磨いたことでしょう。
重廣二十歳の時、根白石に鷹狩に来た政宗公に馬術の腕を見込まれて、伊達家に仕官し、出世街道を歩むのです。
大満寺は国分家の寄進により建立されたことから、古内家の菩提寺となりました。
T氏 記す 令和8年2月15日
参考として大満寺は寺歴で1452年に山の寺洞雲寺實底祥秀大和尚により、曹洞宗として開闢されております。その後洞雲寺配下の寺としておりましたが、四世龍源大和尚代に國分家の庇護を受けたとおもわれます。そのため四世は中興の譽号を本寺より賜ります。