3 実父・国分盛重
古内重廣の実父、国分盛重について触れておきます。
伊達晴宗と久保姫(裁松院・墓地は根白石)の末子である伊達彦九郎政重は、約四百年にわたり宮城郡三十五郷、六万五千石を領した国分家に養子として迎えられました。このとき「盛重」と改名し、松森城主、のちに小泉城主となります。近隣の根白石には、実母である裁松院が隠棲していましたが、盛重が常陸へ亡命する以前に裁松院が亡くなっていたことは、せめてもの幸いであったと思われます。 盛重は天正十三年秋の人取橋の戦いにおいて三百人を率いて戦功を挙げ、また天正十八年、葛西・大崎一揆討伐のため蒲生氏郷が出陣した際、政宗の動向を疑って名生城に籠城した氏郷のもとで人質となり、その疑念を解くなど、伊達家に大いに貢献しました。
しかし、①政宗に殺害されそうになった、②攻撃を受けた、という二説が伝えられる中、姉の嫁ぎ先である佐竹義宣を頼って出奔し、これにより名門国分家は廃絶となりました。佐竹氏が秋田へ移封されると、盛重もこれに従い、横手城一千石の城主となって伊達姓に復籍します。元和元年(1615)七月十五日、没しました。NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では、国分盛重役をイッセー尾形さんが演じていましたが、ドラマの構成上、信用の置けない人物で重要な役どころでは無く描かれていました。
さて、待遇に関して雲泥の差があると思われる伊達成実(しげざね)出奔の際には角田城を攻め、妻子まで殺害した非情な政宗であったにもかかわらず、国分盛重の男子三人、さらに側室の男子三人が殺害されなかったのは、なぜでしょうか。長男の実永は真言宗定禅寺の法印となり、のちに伊達氏一門格の龍宝寺住職を務めました。次男の宥実は臨済宗東昌寺で出家し、山形県寒河江の平塩寺において法印という高位に就いています。側室の子らは姓を馬場、桂島と改め、今日までその系譜を伝えています。政宗にとって盛重は叔父にあたる極めて近い血縁者であり、その子どもたちは従兄弟であり、裁松院の直系でもありました。祖母の血縁者を殺害することに忍びなかったのではないか、また国分家はあくまで家臣であったため、対等な相手ではなく、妻子にまで累を及ぼさなかったのかもしれません。伊達家に生まれながら不遇な道をたどった盛重。政宗は、国分氏が支配していた仙台領(千代城)を手中に収めるために盛重を出奔させたとも考えられ、そのことが結果として、盛重の子どもたちへの比較的寛大な処遇につながったのではないかとも思われます。
國分氏の居城である松森城の図
松森城跡 桜の名所としての現在